慈照寺の銀閣
銀閣のYouTubeを公開しました。
室町時代を代表する金閣寺と銀閣寺、両寺とも臨済宗相国寺(しょうこくじ)の山外塔頭(さんがいたっちゅう)であることはご存じの方も多いと思います。両寺に関しては俗称と正式名称があるので少し整理してみると、金閣寺はお寺の正式名称としては鹿苑寺(ろくおんじ)、その境内に建つ舎利殿は金箔の外装で金閣と呼ばれ、金閣が目立ちすぎてお寺の俗称が金閣寺になりました。一方、銀閣寺は、正式名称は慈照寺(じしょうじ)、境内に建つ観音殿は金閣といつも比較される建物として、完成後100年以上たってから銀閣と呼ばれるようになりました。ここも銀閣が有名になったのでお寺の俗称が銀閣寺になった、と言われています。言わずと知れた金閣は室町時代3代将軍の足利義満(1358-1408)、銀閣は義満の孫の8代将軍義政(1436-1490)によるもの。義満の時代は日明貿易が栄え、北山文化が花開き室町時代の最盛期、一方、元々将軍候補ではなかった義政は、家督相続問題などで争いの絶えない政界から離れ、東山で独自の東山文化を開花させました。この時代に侘び 寂びのイメージが出来上がり茶道、華道の礎が出来たと言われています。室町時代の後期に勃発し、京都の街を壊滅的に破壊した応仁の乱(1467-1477)は、義政の後継者を巡る争いが火種となって、細川氏の東軍と山名氏の西軍が長きにわたって幕府の主導権を争った内乱で、幕府は名実ともに形骸化し、戦国大名による戦国時代に突入していきます。
銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台は荒廃した銀閣寺の復興の際(1639)に月見の好きだった義政のために創設され、銀沙灘は月の光を反射して銀閣を照らす様に、向月台はその上に座って月見が楽しめる様に作られました。地図で見ると銀閣寺は吉田山が邪魔になって京都中心部が見えません。義政はそんなロケーションで東山文化を発展させていったのでしょうね。