にしんそばの松葉

青字はリンクを張っています)

左が南座、右が松葉のビル

 昨日(12/11)は、年中行事の吉例顔見世興行(きちれいかおみせこうぎょう)に行く日だったので、夕食は松葉の「にしんそば」を食べて、ニシンの話をレポートしようと思って意気込んで行ったのですが、いざ店の前に立ってみると、少しお値段の割高感が否めなくて、あきらめて四条通向かいのレトロすぎる洋食の菊水に入ってしまいました。なので、写真は店頭のサンプルのものだけです。高いお金を払っても、時々食べたいと思うウナギとは自分の中のポジションが違いました。

ニシン
北前船
大阪の住吉大社

 ニシンは、言わずと知れた北海道の魚。卵は数の子でおせち料理には子だくさんの縁起物として欠かせません。昆布巻きの芯にも使われています。そんなニシンが、何故京都で「にしんそば」になったか、と言う研究論文がありましたのでリンクを貼っておきます。江戸中期から明治にかけて 北前船 (きたまえぶね)が、上方から、衣類(古着も)、日用雑貨、米、酒などの他、衣食住、祭り、演芸などの文化も北海道の松前藩に運び、帰りは当時豊漁だった、ニシン、タラのカチカチの干物や昆布、また、茹でて油を取った後のニシン粕(かす)を持って帰りました。
 途中の寄港地では、高く買ってくれるものを売り、安いものを仕入れて、さながら総合商社の様な商売をしながら、上方に帰ってきました。ニシン粕は当時盛んだった綿花栽培の肥料として大変人気がありました。
 一度の航海でのもうけは非常に大きく、アメリカのゴールドラッシュの様に、リスクを恐れず一獲千金を夢見る人たちが、こぞって北前船に乗りました。北前船は巨大な帆が1枚付いていて、船体が堅牢で、鋭い船首が波を切り裂き、逆風でも進むことが出来る優れた帆走性能を持っていたようです。船の航行には風の他にも海流の流れも巧みに利用して、行き来しました。
 北前船に関する寄港地での資料は余り無いようですが、江戸中期から明治にかけての物流と情報交流に大きな役割を持っていました。また、航海のリスクも大きかったことから、寄港地には航海の無事を祈った神社がたくさんあります。
 大阪の住吉大社は北前船の出発点の神社として多くの信奉を集めていました。

南座正面
役者が出入りする揚幕(あげまく)
妖怪が出てくるスッポンと言う迫(せり)


 顔見世興行はコロナの影響で公演の様子がすっかり変わってしまいました。大向こうからの「よっ、中村屋!!」とか言う掛け声は禁止、以前は4時間以上もあった公演時間は約半分になりました。幕間の短い時間に慌てて食べる食事も楽しみだったのですが、会場での飲食は禁止。花道の両脇は下手(左)側3席、上手(右)側4席は空き、最前列は全部空き、他の席は2席毎に1席空けているので、収容観客数は半分くらいになっています。コロナ前は1日2公演でしたが、今は3公演になっています。コロナが収まったら元に戻るのでしょうか。コロナを機にスタンダードが変わってしまう事象も多いのでしょうね。

 

Follow me!

観 光

前の記事

南座舞台体験ツアー