一休さん(一休宗純)

一休さんは1394年に生まれ(初めから一休と言う名ではなかった)。父親は後小松天皇(1377-1433)だが母親は女官であり、母はいじめに会って宮中を追われた。言わば不用の子だったので6才で仏門に入り五山派臨済の禅僧になるべく人生の第一歩を洛中屈指の大寺である安国寺(現存しない)で踏み出した。

この普通じゃないスタートが、純粋でかたくなで、すね者的な一休の生涯の性格を生み出すもとになっているのかもしれない。一たび、仏門に入れば仏陀の前ではみな平等であるはずなのに、目前で説かれる説法では幕府の権力との密着度合いで僧の身分の高下が決まるとのことで、一休は五山禅寺に対し深く絶望し16才の時、五山の禅を捨て在野の禅に心の救いを求めた。新しい師の謙翁宗為(けんおうそうい)の属する大徳寺の禅僧たちは幕府から疎外され、権力に接近せず、清貧に甘んじて参禅し禅僧本来の姿勢を保つ人が多かった。21才の時5年間師事した老子を失い絶望の淵に立った一休は琵琶湖に投身自殺を図ろうとした。新たな師として華叟宗曇(けそうそうどん)に教えを請い、25才の時、「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み、雨ふらば降れ、風ふけば吹け」の歌を作った。それは、煩悩の世界とそれを超えた悟りの世界のそのはざまに一休みすることを意味している。何かいつも居直っていた感じのする彼の生涯を象徴する「一休」の名を師の華叟から与えられたのはこの時だった。一休の目からすると大徳寺の中にも清貧枯淡の禅風を堅持するものは少なかった。ある法要の際、多くの僧が金襴法衣に威儀を飾る中、一休はただ一人、布衣(ほい:無地の庶民の衣服)に草履と言う貧僧の姿で参列した。それは大徳寺禅の伝統を見失いがちになりつつある周囲への痛烈な批判と警鐘を意味していた。一休の正義感は怒りとなりそれが燃えれば燃えるほど外から見ると、一休の行動は奇行(きこう)に富み、風狂と評されるようになった。この一休の性格は池泥(ちでい)に咲く一輪のハスの様な悲愴な孤高感の中で火の様に烈しく育てあげられていく。

一休は純情で潔癖で虚飾と偽善を峻拒(しゅんきょ:きっぱりと拒絶する)した。一たび禅門に入れば職業身分に高下はない、そこには平等の法海があるだけ、と説いた四民平等の理念が堺の町衆に受け入れられた。幕府の庇護が得られない中、大徳寺禅は堺の豪商に支えられて行く。後世になってわび茶が堺茶匠に広まっていくがこの種は一休によって蒔かれたと言われている。40代で堺で大徳寺禅の教えを説いていたころは、腰に朱色の木剣を帯びて街を歩いていた。それは禅家の本分をわすれた贋坊主を木剣に例えたものであった。抜いたら贋物とわかる。また、戒律の厳しい禅僧の生活で一休は壮年以降公然と飲酒、肉食、女犯(にょぼん)も行い実子も残している。

63才の時(1456年)には、大徳寺開山の祖を育てた大応国師が創設し後に戦火で焼け落ちた妙勝寺を再興し酬恩庵と名付けた。これが京田辺市にある一休寺である。

足利義政(1436-1490)の家督相続をめぐる問題から発生した応仁の乱(1467-1477)は京都を焦土と化した。一休は大徳寺から酬恩庵に移り住んだ。応仁の乱後81才になってから大徳寺住持(住職)となり、再興のため尽力した。堺の豪商の帰依は大きな助けとなった。老年期に使用していた杖の上部にはドクロのオブジェが付いていて風狂のイメージが象徴されていた。大徳寺の住持になった後も酬恩庵に住み大徳寺に通っていた。80才を越えて体が弱ってきた一休(1394-1481)はマラリアのため88才の生涯を酬恩庵で閉じた。

一休は天皇家の家系であるので酬恩庵にある墓所は立ち入り禁止で宮内庁が管理している。お墓の前の枯山水庭園は弟子の村田珠光(むらたじゅこう)の作と言われている。

一休の後半生は足利義政の東山文化が花咲いた時代でもあった。義政は能阿弥らと共に唐物(からもの)の絵画や陶器を鑑賞しながら茶を楽しむ豪華で高尚な「書院の茶」を始めた。一方、一休の弟子の村田珠光は禅の精神を基調に清潔と閑寂を旨とする「わび茶」を起こしている。その後、武野紹鴎(たけのじょうおう)を経て堺の魚問屋出身の田中与四郎が千利休となりわび茶を完成させる。

一休の残した言葉には

・門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

・世の中は起きて箱して(糞して)寝て食ってあとは死ぬるを待つばかりなり

・南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ

・釈迦と言ういたづらものが世にいでておほくのひとをまよわするかな

などたくさんあります。どれも風刺が効いていてとても奥深い感じがします。

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